昭和42年08月02日 朝の御理解
人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよと仰る。お道の信心はどこまでも、道理に合うた信心にならなければならん。どこまでも成程そうだなと誰が聞いても見ても合点がいく様な道理に合うたものでなければいけない。その道理に合うということについて神様が信心をする、先ず願いから始まるので御座いますけれども、そのお願い願うでもやはり道理に合うた願い方をしなければ、いけないということ。
どうぞお願いします、お願いしますだけではいかんね。ですからもうよそは知りません。他の神様は知りません。けども金光様のご信心だけは、どこまでも人間は万物の霊長であるから、万物を見て、言わば万物のは、霊長である人間のする信心なんです。どこまでも一つ、道理をわきまえなければいけません。道理をわきまえて、道理に合うた信心。成程こういう風に道理を分けて、ことの道理を分けてお願いをする。
理がたつわけなのです。例えば身体身体の事でも、お願いさせて貰う。どうぞそれは始めの間はどうぞ、どうぞといや、それに対しておかげを下さるということは、天地の親神様のならお働き、お力、権威にかけてでも、神の働き示しを見せると仰るのですが。これは私、十何年間のお取り次させて頂いての、体験から申しましてもですね、それはもう実に不思議なもう奇跡的なおかげを、受けた方が沢山ありますよ。
もうそれはもう、指折り数えても足らない。もう不思議なおかげを受けたいう。医者が見放した病人が助かったと、こういうこんがらがった事情、こういう問題が、こういう風におかげ頂いたとか。もうそりゃ本当に、もう例えばここへ、合楽に参りましてからだけでも、もうたくさんあります。新しいご信者さん方で、お願いしておかげを受けたというのは、ですからハァ神様ちゃなぁ神様の働きちゃ。
たいしたものだなぁと言うことが分かると同時にです、やはり話を聞いて助かれと仰るその話を、聞かなければ分からん。人間は万物の霊長であるから万物を見て、道理に合う信心をせよ。だから次にはですね、もう道理に合うた信心をせなきゃ駄目なんです。例えばお願い、お願い一つでも、道理に合わなければ嘘なんです。これからは、その次から。ただ道理に合わんにゃ参るだけ、ただお願いするだけじゃいかんです。
そこでなら信心を頂いとる、皆さんがです果たしてその道理に合うた願い方、道理に合うた信心が出来ておるかどうかと言う事を確かめていかなければならない。今日はその事を聞いて貰いたい。例えて申しますならば、なら今日はその願いに筋道を立てよと言う様なまあ意味でお話を聞いて貰う。お願いを皆さんなさらんことはないでしょうが、必ず願いをなさるでしょうが、その願いに筋道が立つとらなきゃいかん。
いや道理に合うた筋道が立つとらなきゃいかん。どうぞ身体に健康のお願いを頂かせてください。健康のおかげを頂かせて下さい病気を治して下さいだけじゃいかん。その健康にならして頂いたならば健康にならして頂いた身体をもって、神様の心に叶う様な私にならして頂かなければならんのです。健康になったばっかりにま例えて言うならば、腕力を振るう我侭をする。不健康である時にゃちゃんとこげんしておったとか。
健康になるに従ってからね。神様のお喜びにならないような、言わばあり方になって御覧なさい。是ではおかげになりませんからハァこの氏子が願っておる、しかもその願いの筋がですね健康にならして頂きましたら、この健康を神様の、お喜び頂けるような信心生活をさせて頂けれる、良い信心をさせて頂けれる、人間として神様の氏子としての値打ちのある私に、愈々成らして頂く為に健康にならなければならない。
健康を願わさせて貰うというなら、筋道が立つでしょうが。百万長者にならして下さいもいいですが、百万長者なったばっかりに、もうその我侭をする贅沢をするというだけの百万長者の願いを、神様が聞き届けて下さるはずがない。百万長者にならして頂きましたら、その百万そのたくさんの財産を持ってです、世の中の人が助かるために、世の中が明るくなるために、神様のお喜びが頂けるようなことのために。
その財産を使わして頂くと言う様な願いの元に、私はその百万長者にならして下さい。日勝り月勝り年勝、代勝りの言わば、長者の徳を受けさせて頂きたいという願いもです、筋道が立つ訳なんです。道理に合うた信心をせよと今日は、道理に合うた願いをせよとこういう事を私は申しましたね。道理に合うた願い、例えばあの選挙の時なんか立候補されておられる方達が、こう言うて回られるでしょうがどうぞお願いします。
どうぞお願いします。村から町へこう言うて回られる。今日はただどうぞお願いしますだけじゃないでしょうがね。私に清き一票を頂いたならば、それを皆さんの公僕として、言うならば世の中が明るくなることのために、こういう私は理想のもとに立候補をするので御座いますと言うて、自分のその理想を説かれるでしょうが。これなんかは、言うなら筋道が立ててあるわけ。
ところが言うた事と実際はねあべこべになったり、実行なんか全然しないところに、もうあれは狸のようなやつじゃないから、もうあれにや、入れんと言うことに、まあ言うなるわけなんですよ。どうでしょうか。立候補された候補者の方たちがこうもします、ああもします。こういうふうなあり方になります。本当に皆さんのこうぼくとしての御用に立たせて頂きますと。
例えば言うておるように、あれを実行したら、もうその次は、もう絶対当選間違いがない。ところがそれに当選した途端にもうふんぞりかえったり、俺は何々代議士でござい、何々議員でございと言うふうな、ふうに威張るから次にはもう信用がない。だから次にまた嘘の手を考えんならんちゅうごたる風になってくるわけです。まして相手がそれが神様ですからね。それは色々ございますけどもです。
今日は、私ご神前に座らせて頂きましたら、皆さん、あのあんな子供の時に、体験はないでしょうか。春先にですね。白い花が咲く、花。実が実が、小さい実がなるのです。雑草の中に、こうやってその実をこう剥いで皮をくつけて、何にかこうシャコ、シャコジゃコ、ジャコ言わせる。あの何とか言います草がありますよ。子供の時に私どもがあれを、こうね丁度鈴のようあの。産婆さんの時に使います。
鈴の様な形になります。シャコシャコ、それを頂いてからあの、いわゆる世間がガチャガチャ言うこと。自然がですね。この世の中がです騒がしいという、世の中が騒がしいのはです、どういうことが原因であると思うか。と言うような、反対神様の方から質問を受けるような事でした。世の中が騒がしいのは、どういうようなわけに、あのように、世の中が騒がしいのかと。
金光様のご信者であれば、皆んな一様にお願いをしとることは、世界真の平和なのである。世界総人類の助かりなのである。天地拝詞を奉唱致しますと、それがうたって御座います。世界真の平和を願う。そんならその願うです、こちらの態度というものが、姿勢というものが道理に合うた姿勢に、道理にならして頂いて、そのことを願わなければ、だから神様は聞いちゃ下さらん。
自然がどうして、世の中はこんなにも、騒がしいのかと、それは神様があたりある程度知っちゃりましょうもん。こちらに聞いておられる。皆さんどう思われますか。皆さんがもし神様にそういう風に尋ねられたらです、ならこれを小さく致しましてもええです。町とか村とかてもいいです。もっと小さくして、自分の家庭ということにしてもいいです。自分の村でもいいです。
とにかく円満じゃない何か村寄り、村寄りがあると、ゴチャゴチャするね。家の中が何とはなしに、ゴチャゴチャする。そうなってまいりますと段々分かってくるでしょうが。何故なのか。何故に家の中が騒がしいのか。何故に世の中がこの様に騒がしいのかね。信心をしておってもそうです。信心をしておってもやはりそういう、騒がしさが、いくところに、いくところにあるという事はどう言うような訳かと。
「人の悪いことを言う者がある。もしその場に居ったらその場を逃げよ」と教祖はそのように教えておられます。もうせめてですね。私は信心させて頂く者これは私達皆さんも全部、皆信心させて頂く者はです。この御教えだけでも本気で、守らせて頂いたら素晴らしいと思うです。人の悪口を言う人の悪いことを言う時にはです、もうその場にもし居ったら、その場を逃げよと仰る。
世の中が騒がしい一つの大きな原因はです、お互いの足元を探り合い、悪口の言い合いをするから騒がしいのです。私はそう気付かせて頂いたね。だから神様ハハァーお互い人間同志が悪口の言い合わん様になったら、世の中は騒がしさが、大体、少なくなるだろうと私が思いますということを申しましたら、オイサミがあった。そうなんです。それにかかわらずですね。
自分の家庭、家族のことまで、家内は主人の、主人は家内の悪口を言い合う、こういう家庭で円満なおかげの受けられるはずは絶対ない。おかげが受けられるはずないです。悪口を言い合いよる、親と子が、それでもです、それでも言わなければおれないという目に余る様なことがあります。やっぱり。あります時には、その姿がそのまま自分の姿であると、どう昨日あたりの御理解にありますですね。
自分自身を本当に分からさせて頂いて、自分自身の中にそういう見苦しい、言わばものが、自分の心の中にあるんだと、いよいよ分からさせて頂いて、とてもとても、人の悪口ども言うだんじゃない。私じゃないということをです、分かる事だと思うです。お広前でもそうです。信者同志がです、いかにも、表面は円満な話をしよるごとあるけれども、陰じゃ、もうあれがどうの、これがどうのという様な悪口を言う。
しかもあることなかことその悪口をつぎ合う様なです。言い合う様なことで、私はおかげの頂けるはずは絶対ないと思う。私は、今日を境にですね、お互いが、神様にですねそうだ、それなんだ。世の中が騒がしいのは、お互いが悪口を言い合うからだと、その悪口を言い合うその声がああいう戦争の姿になったり、お国とお国が睨み合わなければならないような、結果になるのです。
人の欠点でも見出したらもう鬼の首までとったように、それを吹聴する。あん達が悪口を言うた、言うたですねと、いうことでケンカになる。まあ私は、本当に今日は、それを思いましたです。私も、私も悪口をいう方ですからですね。ハァこりゃ悪口を言うことがですね。例えば私どもが口にどんなに真を語りつつと仰るが、「口に真を語りつつ心に真のなきこと」と仰るが。
どんなに真らしく世界真の平和私どもが願い、願い致しましても人の悪口どん言う様な人間が願っておかげになる筈がないです。商売敵悪口を言いよる。そげんわざわざ心にないことを褒めんでもよか。それは嘘だけれどもそう言う、悪口を言うを、の欠点なんか発見した場合はです、ハァ自分のところにも、あれに増したような欠点が、ありだんばせんじゃろうかと、一応思うてみなければいけん。
今日私はその道理に合う信心。しかも今日は、その願いに絞ってね。なら、道理に合うた願いをしなければいけない。そんなら願う者の姿勢としてです、人どんの悪口どんが言えれる私じゃないということが分かると同時にです、人の悪口を金輪際申しませんというような姿勢をもって、態度をもって、それこそ候補者じゃないですけれども、決して私は人の悪口は言いません。
どうぞ神様よろしくお願い致しますと言うならば、神さまは聞いて下さるですよ。自分自身を本当に究めていく。ですから先ず自分の心の中から、先ず自分の家庭の中からです、悪口を言い合う様な事を改めて。信者同志はなおさらの事。信者同志の悪口の言い合いのような、私はよく共励会なんかに参りますと、共励会じゃなくてから討論会になる。そして人の悪口、その様な事でおかげが受けられるかと言うて。その自分が少しおかげを受けとると、そのその欠点を言う。
そすと今度は片一方は。今度はお前がちっとおかげを頂いとるかと言うてからどうもそんな、こっちの悪口を言よる。まるっきり共励会が討論会になってしまう。ですからそう言うことでは私は向上はない。どうぞ今日からですね、今日を境にお互い一つもう金輪際人の悪口は言わんと言うですね、修行させて頂いて合楽中の者がです。もう絶対合楽のご信者さんは人の悪口どんを言いなさる人はいなさらんちゅう位なです。
おかげを頂きたいものだと。今日はそれを、頻りにそのことを思うたんです。そういう姿勢そういう態度をもって、私どは様々な願いをさせて頂くならです、これは願いに筋道が立つ。これなら神様も合点して下さるに違いはない。ですからもう今日はじゃありませんよ、今日からお互いがですね。何故悪口を言うてはならないかと言うこと。悪口の言えるだんじゃない。自分自身というものを見極めて、おかげ頂きたいと思うですね。
どうぞ。